いったい私はいつ頃から天心を始めたのか、それすらはっきり憶えていませんが、たしか、阿部秀雄先生が開かれた勉強会の中でだったと思います。
要するに、阿部先生が天心を開発されるにあたって、勉強会の参加メンバーが実験台となって、いろいろな体験をしたのです。
その間に、天心が始まったような気がします。
とにかく最初は、気持ちはよかったものの、「何?、これ」と、頭の中がはてなマークでいっぱいでした。
その後センサリー・アウェアネスのワークショップに参加したときに、「これって、天心と同じかなあ」という体験をしました。
その印象がとても強烈だったので、多くの?マークを抱えながらも、私が天心に踏み込んだ大きなきっかけになったのは、むしろその体験だったのかもしれません。
2人1組になって対面して立ち、両手を合わせます。
それから2人で共同して両手を動かすのですが、そのときの指示が
「どちらも誘導してはいけません、またどちらも相手に誘導されてはいけません」
というものでした。
なにしろ通訳を介してのことなので、日本語としてそれが適当だったのか、あるいはもっと柔らかな表現だったのに私が勝手にそう解釈したのか、今となってはわかりませんが、私としてはとても困りました。
ちょっと気を抜くと「ありゃ、これは相手に引っぱられているな」と思うし、「よし、それじゃあ」と意気込むと、「あちゃあ、これは相手を引っぱっているな」と感じるし、もう四苦八苦です。
お互いにそんな想いをしていたのかもしれませんが、そのうちいつの間にか、誘導しているかどうかなど気にならなくなっていました。
ところが今度は、相手がどんどん大きくなっていくのです。
まるでニョキニョキと伸びるように、「もう届かないよお」という高さまで手を挙げなくてはならず、精一杯手を挙げていたら、そのうち相手が私にのしかかって来るような気がしました。
まるで覆いかぶさるかのように巨大化した相手が、どんどん私を上から押しつけるのです。
負けず嫌いな私は、「ここで潰されてなるものか」と、両脚を踏ん張って、両手はピンとつっぱって、とにかく自分が潰されないように必死で支えていました。
体験が終ってから、相手の女性に自分の感じたことを話したところ、「そうでしょ、私ものすごく大きな樹になっていたの、とっても気持よかったわ」と言うのです。
これを聞いて「へエ、言葉で話さなくても相手のイメージって伝わるんだ」と驚いたと同時に、感じることが苦手と思い込んでいた私は、ちょっと自信を持ちました。
そのとき、「これって天心に似ているなあ」と思ったのです。
あとから勉強するに従って、ちょっと天心とは意味が違うとわかりましたが、それでも体の感覚に頼る技法に自信がなかった私にとっては、この体験に後押しされて、その後も天心を学び続けることになったのではないかと、思います。
しばらくしてから、高齢者の方と「あらあ、こんな天心もできるんだ、私って教祖様になれるかも」と思ったような、おもしろい体験もありましたが、それはまたの機会に譲るとして、最後にひとつだけ、「体験する人に優しく、援助する人に易しい、互助の技法」である天心の極意を達成した(?)、という自慢話を披露させてもらいます。
昨年の秋、青森県で子育て講演会の仕事がありました。
120人ほどの参加者で、話を聞いていただいたり、いくつかの簡単な実技体験をしてもらったりしたのですが、これほどの人数だと、参加者一人一人の反応がとても掴めません。
参加した方たちの気持ちに、どのくらい手ごたえがあったのかと気になっていたところ、託児に預けていた子どもを引き取って帰るひとりのお母さんが、「きょうは、ありがとうございました」と挨拶をしてくださいました。
「いいえ、こちらこそ長い時間、ありがとうございました」と応えていると、脇にいた子どもが、「バイバイ」と私に向かって手を振ります。
私も同じようにバイバイをして、別れました。
まもなく、手をつないで向こうへ歩き始めた親子の会話が聞こえてきました。
「ねえ、あの人だあれ?」
「あの人はねえ、お母さんに元気をくれた人」
「ふうん」
おもわず、心の中で「やったあ!」とガッツポーズをしました。
体験した人が元気になったと聞いて、援助した私も嬉しくなり、元気になったのです。
これぞ互助、まさしく天心の精神でしょ!?
これからも、自分磨きのためにも、子育て援助のためにも、この天心の極意に近づけるよう精進したいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。