本来私たちのいのちは、絶えず流れ動いて、よりよい状態へと向かう自然治癒力を持っているはずですが、時として(というより、しばしば)、無意識の底に停滞し固着したよどみを生じて、それがいのちの働き全体を束縛することがあります。それが、思い残しのもとになる、ハコミという心理療法で言われる‘コア・マテリアル’です。
それを意志の力で解き放とうとしてもうまくいきません。意志の力でうまくいくくらいなら、誰もがとっくに楽になっています。意志の働きによらずに停滞し固着した状態からふたたび動きだすといいわけで、そうした自然な表現を‘無心の動き’と呼んでいます。無心の動きとは、意識がなくなるという意味ではなく、無意識の動きという意味です。朝起きたときの伸びとか、疲れたときのあくびなどがその例です。
無心になって自分と向き合う
ただそれだけのことが、私たちにはひどく難しいことになっています。
それというのも、私たちは生を受けてからずっと、自分と向き合うことを妨げる力がさまざまな形で働いている世の中で生きてきているからです。
私たちはあらためて、無心になることを学び直さなければならないのです。
ところが、ひとりでは困難なそのことが、互いに手を添えて支え合うことで、てきめんに容易になります。
無心の動きがかくも容易に誘い出されるものかと実感したのは平成8年、ミンデル夫妻のプロセスワーク(POP)の一日ワークショップに参加して、2人1組の実習を体験したのがきっかけです。そこで教えられた要領はこうでした。
いまから私がアーニィの腕を持ち上げていくことで、彼の筋肉に眠っている自己表現への動きを目覚めさせます。
私が誘導する動きは必ずしも、彼の腕の内部にいまひそんでいる動きを正しくとらえたものとはかぎりませんが、たとえ私の誘導がまちがっていたとしても、彼がそれに逆らって動かしているうちに、彼の筋肉に潜在している動きが目覚めるのです。
腕の肉付きのよい部分ではなく、骨っぽい関節の部分だけに触れるようにします。片手で彼の手首を、もう一方の手で肘を支えます。
そして、とてもゆっくりと腕を持ち上げていきます。*
私の実習相手になった若い娘さんが、私の腕をそっと支えて静かに持ち上げていくと、肩の高さ近くになったところで、あらふしぎ。私の腕がひとりでに、体の前後に動きだしたではありませんかー。
ふっと別世界に行ったような、心地よい感覚が全身に広がり、私は思わず「波だ!」と叫んでしまいました。そう、まさしくそれは、穏やかな海辺で寄せては返す波のような感じだったのです。
ところが、そのとたんに、相手の人は私の腕を放してしまいました。というのも、実習を始めるのに先立って、
「いったん自己表現が始まったら、支えていた手を放してその人自身の動きにゆだねてください」という教示を受けていたからです。
放されてしまった私の心許なかったこと、寂しかったことといったらありません。私はとっさに、「放さないで!」と叫んでしまいました。と同時に、「これだ、これこそが探し求めていたものだ!」という確信を持ったのです。
これが、歴史的な天心誕生の瞬間です。
*アーノルド&エイミー・ミンデル『うしろ向きに馬に乗る』、 藤見幸雄/青木聡訳、春秋社。
それ以来、私たちは無心の動きを誘うさまざまな手立てを工夫してきました。
体験する人はただひたすら、今のありのままに身をゆだねていると、そのうち、自分でも意識していなかった無心の自己表現が誘いだされます。
最初は体の動きが、やがてそれに引きずられるようにして心も動いてきます。
ある人は立って舞い、
ある人は寝そべって眠り、
ある人は笑い、
ある人は泣き、
ある人は叫び、といったように、
自分でも思っても見なかったような自己表現が始まり、やがて安らぎます。
体験する人も援助する人も、事の成り行きを天に任せて何が起きるかを無心に待つ、というのが成功のコツです。
でも、意識はつねに目覚めていますから、まだ心の準備ができていない感情をむりやり引き出されることはありません。自分の意志で止めればよいのです。すべてを自分の責任で体験します。
会話ではなく、体のやりとりなので、口べたな人、自分の気持ちを言葉で表現することが苦手な人も安心です。
赤ちゃんの頃、胎児の頃とさかのぼるほど、苦痛の記憶はますます言葉を離れて、体のなかへと沈み込んでいきますから、体のやりとりは、言葉のやりとり以上に深い体験をもたらしやすいのです。
ただ、ここで、‘防衛心’**の大切さに注意を促しておきます。
自分自身としっかり向き合って本来の自分を取り戻そうとする心を‘向上心’と呼ぶとすれば、他方、あからさまに向き合ってしまったら自分がどうにもならない状態に陥ってしまいそうな内面に、しっかりふたをかぶせて自分を守ってきたのが防衛心です。
そのどちらも自分を助けようとする心の働きです。
これからつどいの場でいろいろな体験をするとき、そのバランスを大切にしてください。
この場への信頼、一緒に体験する仲間や自分自身への信頼を確かめながら、少しずつ体験を深めていきましょう。
互いの支え合いが信頼できるようになると、心のカギがしだいに外れて、奥にしまわれていた気持ちが浮上してきます。
支え合い、触れ合うことは、親密感・一体感を満たすだけでなく、隠されていた気持ちの表現を容易にしてくれるからです。
自分で用心していないと、気持ちが一気に溢れてきて、それまで苦しい気持ちをしまい込むことでかろうじて保っていた心の平安が崩れてしまいかねないほどです。
でも、向上心と防衛心のバランスをどう取っていったらいいかは他人には分からないことなので、あくまでも自己責任で体験を深めていきます。
それにしても、つどいに参加してから気持ちが騒ぎやすくなることもあります。
そんなときは、おとな心を立ててヨシヨシするなり、身近な誰かに気持ちを聴いてもらうなり、「次回のつどいまで待とうね」と自分に言い聞かせるなりして、なんとか切り抜けてくださいね。
**向上心と防衛心という表現は、SAT法というカウンセリング技法を提唱している宗像恒次の著書から採りました。
無心の動きは、野口整体を創始した野口晴哉が創案した活元運動に似ています。
野口は病気治しの名人でしたが、ひとり名人がいくら病人を治しても数に限度があること、また、自分で自分の健康を創ることこそが大切なことに思い至って活元を創案したということです。
私たちが野口晴哉の言葉を借りて‘天心’と呼び、癒しのプロセスの導きの糸として活用している無心の動きは、体の健康よりはむしろ心の解放を重視していること、体験をしているあいだ終始誰かが手を添えて寄り添っていること、という2点で違いがあります。
やってみよう『無心の動きの疑似体験』
トニー・クリスプという人が、無心の動きとはどんな感じのものかを疑似体験するために、次のような体験を勧めているので、やってみてください***。
壁に体の右か左を向け、腕を側方に上げていこうとすると、壁に阻まれます。
それを、自分は上げたいのに何かの事情で上げるのを止められた、とイメージします。
腕と壁のあいだで、
「腕を上げたい」
「上げてはダメ」
という引き合いを楽しみます。
力の勝負というよりは、「腕を上げたい」と本気で思うのがポイントです。
20秒か30秒ほど引き合ってから中断して、いったん腕をダラッと下ろします。
すると、あらふしぎ。腕がすうーっと、ひとりでに側方に上がっていきます。
上げたかったのに上げるのを止められた、その思いが体の緊張として残っているので、妨げるものがなくなったところでおのずから上がりはじめるわけです。
なかには、そうやってみても無心の動きが出ない人もいます。
もし上がらなかったら、ちょっとだけ(1ミリか1センチほど)動きを誘ってみると動きだします。
でも、動かないからといって、べつにどうということはありません。
たとえば幼いときから気持ちを抑えてがんばってきた、といった大切な意味があって動きが出にくいだけのことですから、できる・できないの尺度で自分を評価しないこと。いずれは誰でもできるようになります。
動かない人はむしろ、「ここに心の宝ものが隠れている」と楽しみにしたらいいです。
腕を側方に上げていく動きでなくても、どんな動きでもいいので、いろんな動きで試してみてください。こうした思いは、あくまでも人為的にこしらえたものですから、こんなふうに解放してやらなくても、しばらくすれば自然に消えていきます。
しかし、生い立ちのなかで、ひどく怖い思いをしたとか、殴りたいほど悔しい思いをじっとこらえていたとか、自由に羽ばたきたいのにその望みを押しこめていたなどの体験が解放されないまま過ぎてきているとしたら、その思いはいまなお解放される機会を待っていることでしょう。
*トニー・クリスプ『自然運動と癒し』(UNIO)