癒しの旅を続ける私たち一人ひとりの心は、たとえればバスのようなもので、‘気持ち’という乗客をたくさん乗せています。バスとは言っても、誰かと乗り合わせて行くわけではありません。あなた専用のバスです。
もちろん自分探しの旅は、誰かと一緒に出かけたほうが楽しいし、支え合うことが力にもなるのですが、乗り物は、それぞれ自分専用のバスです。乗用車でも自転車でもよさそうなものですが、誰しも、生い立ちのなかで乗り込んできたいろんな〈気持ち〉を抱えてきていますから、乗客席の多いバスのほうがぴったりします。そして、〈自分〉という存在は、そのいろんな気持ちという乗客を束ねて日々旅を続ける、いわば心の運転手です。折に触れて一つひとつの気持ちをもてなし、癒す車掌の役目も兼ねています。
運転手が不在では話になりません。誰でも運転手がいるに決まっている・・・はずですが、あいにくそうでもありません。心のバスを運転する私たちは、実にしばしば、実にたやすく、バスジャックされてしまうのです。
誰に?
乗客のなかの誰か。つまり、入れ替わり立ち替わり、乗客席から立ち上がって騒ぎ立て、運転席までしゃしゃり出てくる、いろんな気持ちによって。
たとえば、「私ってダメ!」と自分を決めつける乗客に乗っ取られてしまうと、ほんとうは、「私ダメじゃないよ!」と言い張りたい気持ちとか、「ダメって言うのがダメ!」とか言い返したい気持ちとか、他にもいろんな気持ちがあるはずなのに、バスのなかが丸ごと「私ってダメ!」状態になってしまいます。
この状態のままで旅を続けていてもうまくいきません。もっぱらその、バスジャックしている気持ちの観点からしかバスを動かすことができなくなってしまうからです。バスはそのつど、「あっちへ行け。こっちへ行け」と指図されて右往左往します。暴走して、一緒に走っているパートナーバスやら、我が子バスやら、職場の同僚バスやらに衝突してしまいます。あるいは、路上や交差点でエンストを起こしてしまうこともあります。そのため、しあわせ村にたどりつくどころではなくなってしまうのです。
気持ちに乗っ取られていない状態の自分を、「おとな心が立っている」と言うこともあります。おとな心と言うと、「おとな心? なに、それ?」と困惑されることがよくあります。人によっては、反発さえします。でも、これは、「まあ、まあ、いいじゃないか。もっとおとなになれよ」などと世慣れを勧めるときの〈おとな〉とは意味が違います。心のなかのさまざまな気持ちを取りまとめ導いていく主体が確立している、という意味です。どの気持ちにも分け隔てない共感を持ちながらも、騒ぐ気持ちによって心の運転を支配されない強さを持っている、という意味です。アメリカでも、おとな心(adult egoとかadult selfなどと呼ばれている)を大切にしている心理技法に時々出会いいます。たとえばハル&シドラ・ストーン夫妻が創始したボイス・ダイアローグVoeceDialogueなどがそうです。
あいにくなことに、いざある気持ちに乗っ取られてしまうと、運転手は乗っ取られていることになかなか気づきません。気持ちが自分にべったりへばりついているというのに、感覚がすっかり麻痺してしまって、その気持ちの存在に気づきにくいのです。
だからといって、運転席を乗っ取る気持ちは、けっして悪者ではありません。否定的に思える心の働きも実は肯定的なものを求めているのであり、否定したくなる気持ちのさらに奥にはむしろ宝物のような気持ちが隠れていることを私たちは知っています。ですから、
「あとで早く言い分を聴くから、いまは乗客席に戻っていてね」
とたしなめることは必要ですが、苦しさが募ってなんとかしてほしいばかりに、居ても立ってもいられなくなって騒ぎ立てているのですから、その存在を優しく認め、もてなし、その言い分を聴いてやったらいいのです。
それにしても、運転を乗っ取られてしまったら、言い分を聴いてやるどころではなくなります。ですから、自分探しの旅の途上で迷ったとき、まず問い直してみてほしいのです。心のバスを走らせているのはいま誰だろう、と。
理想を言えば、まず不動のおとな心を確立して、それから自分探しの旅を始めればいいはずですが、それは現実的ではありません。なぜなら、私たちはいくら心がけてはいても、毎日のようにバスジャックが起きてしまうからです。そんな自分を、「情けない」と責めてみても始まりません。それよりは、
〈乗っ取られたことに気づきやすくなる〉
〈気づいたらすぐ立ち直る〉
というのを現実ベストの目標にしましょう。でも、これとても、最初のうちは相当に難しいはずです。
やってみよう『気持ちに声をかける』
おとな心を立て直すのに、いますぐにでもできるシンプルな方法があります。バスジャックしている気持ちに気づいたら、
「やあ、そこにいるね」
と声を掛けたらいいのです。・・・と言うと、最初はよく、
「え?」
と意外な顔をされます。
「自分が自分に?」
と聞き返されることもあります。
自分が自分にではなく、おとな心の状態にある自分が、自分の心のなかにある気持ちの一つに対してです。要するに、おとな心が気持ちに対して意識的に声を掛けることで、〈声を掛けている自分〉と、〈声を掛けられている気持ち〉とのあいだに境界線が引かれ、生きていく主体としてのおとな心の存在がクローズ・アップされるのです。