気持ちと向き合うには、どんな姿勢で臨んだらいいのでしょうか。
ふだん私たちの意識は、仕事や家族や世相など自分の外の世界に向かって高速回転を続けています。でも、自分と向き合うときには、意識はその回転速度を落として、落ち着いた状態で自分の心と向き合い、現れてくる気持ちに対して、片寄りなく分け隔てない共感のまなざしを向けます。
心を静めて、現れてくるものに、あるがまま観察を続ける続けることを、仏教では内観とか正念と言っています。アメリカの癒しの専門家たちはここから学んで、それをマインドフルネスmindfulnessの状態と訳しました。それがいま、日本の癒しの世界に逆輸入されています。
でも、仏教瞑想と癒しとでは、その目的が違いますから、マインドフルな心の在り方が基本的に違います。
フォーカシングのアン・ワイザー・コーネルは、
フォーカシングは、仏教瞑想が持っているたくさんの特質を共有しています。心を開いており、軽々しく判断するのを慎みます。仏教瞑想はプレゼンスpresenceの状態にあるときに有効に働きます。あるがままに注意を払うのです。
では、どこが違うかと言えば、仏教瞑想は物事を手放す、というところにあります。たとえて言えば、目の前をバスが通り過ぎるのをそのまま見守るようなものです。感情がとどまろうが通り過ぎようが同じことです。
一方、フォーカシングはケアします。関心を持ち、好奇心を働かせます。感情と知り合うことができるように、去らずにとどまってほしいと思います。「やあ、あなたのことをよく知りたいな」と声を掛けるのです。と言っています。
バスが通り過ぎるのをそのまま見守る、とは言い得て妙ですね。
一方癒しで大切なのは、バスに乗り込みながら同時にバスの外から見守ることだ、とでも言ったらいいでしょうか。心の運転手が健在なプレゼンスの状態では、私たちは‘感じる’ことと‘観じる’こととが同時にできるのです。
マインドフルになるプロセスは、
(1)ゆっくりと心を静めて、注意を内側に向ける。
(2)おのずと感受性が高まり、内面の状態に気づきやすくなる。
(3)現れるものすべてを、分け隔てなく、等しい共感を持って、ただそのまま認める。
という3つのステップに分けて考えることができますが、問題は第3のステップです。‘ただそのまま’とは、好き嫌いの執着なしにということですが、ある気持ちが現れると、その気持ちに対して好き嫌いの気持ちが起きることはよくあることです。でもそこで、「あ、いけない。好き嫌いで気持ちを観てしまった!」と思うことはないのです。
ある気持ちに好き嫌いが起きているときは、‘自分’が好き嫌いをしているのではなく、何か別の気持ちが‘自分’に癒着して(自分を乗っ取って)好き嫌いをしているときです。たとえば、悲しくなって泣きたくなった気持ちに出会って、「泣き虫は嫌い」と思ったとしたら、「泣き虫は嫌い」と思うんだね、とその気持ちを認めてやれば、悲しくなって泣きたくなった気持ちにも、「泣き虫は嫌い」と思う気持ちにも、分け隔てない共感を持つことができます。
何かの気持ちが癒着していることに気づき、どの気持ちにもあるがままに分け隔てない共感を持つことは、あくまでも癒しの第一歩なのですが、こうして心の運転手がしっかり立つだけで、本来の自分を取り戻す第一歩を確かに踏み出した、と実感できるでしょう。
大切な気持ちとようやく出会えそうになつたとき、ややもすると私たちは、その気持ちとともにそのままとどまることなく、そこから離れてしまいがちです。怖くなって逃げ戻ったり、何かで紛らしたり、ダメな気持ちと評価したり、知的な理解に走ったりします。逆に、早くその気持ちを変容させよう、あるいは消滅させようと急ぐこともあります。
でも、久しく所在が分からなかった、懐かしい旧友とようやく再会できたとしたら、しばらくは何も言わずに抱き合って、再会を喜び合うのではないでしょうか。せっかく大切な気持ちと再会したのですから、まずは、いまここにしっかりとどまって、気持ちにあるがまま寄り添い続けることにしましょう。
やってみよう『あるがままの呼吸』
マインドフルになるのに役に立つのが、呼吸です。
なぜかと言うと、息づかいは一つの生理的な機能ですが、同時にまた、心の状態をそのまま反映して変化するからです。私たちはその時々の気持ちによって、息をひそめたり、息をのんだり、息が荒くなったりしますよね。ですから、たとえ意識がいきなり気持ちとつながるのは難しくても、呼吸を仲立ちとしてつながりやすくなるのです。
そこで、「心のなかにどんな気持ちがあるかな?」とおおざっぱに意識を向けたところで、「いまどんな呼吸をしたがっているだろう?」と感じて、あるがままの呼吸を続けていると、浮つき、ざわざわした心が自然に静まってきます。同時に、気持ちとつながっているという実感を持ちやすくなります。マインドフルになる3つのステップの第1と第2がおのずから達成されます。
ポイントは、あるがままの呼吸です。
正しい呼吸(深い、規則的な、腹式の呼吸)をしなくてはなどと思ってしまうと、せっかくの内面とのつながりを断ち切ってしまうことになりますから、ただ体が呼吸するがままに意識をゆだねればいいのです。呼吸というのは寄せては返す波のようなものですから、息づかいに身をゆだねて、波間に漂うような心地を楽しんでください。
速ければ速いまま、遅ければ遅いままに。浅ければ浅いまま、深ければ深いままに。そして、不規則なら不規則なままに。
どこまでも吸いたくなったらどこまでも吸い、どこまでも吐きたくなったらどこまでも吐き、息を止めたくなったら止めます。
腹で吸いたくなったら腹で吸い、胸で吸いたくなったら胸で吸い、頭で吸いたくなったら頭で吸います。
あるがままの息づかいをしているうちに早くも、体のあちこちに微妙な感覚が感じられるかもしれません。また、どこか体を動かしたくなったり、何かの気持ちが現れるかもしれません。意識を向けられると、何かが目覚めて動き出すのです。その結果、何か無心の表現が始まったとしても、本格的に気持ちをもてなすのはまだ先のことと考えましょう。まずは気持ちとしっかり出会うことです。
癒しのつどいで、ある人が、なにやら思いがけなく心に響くものがあったようで、しばらく黙っていたかと思ったら、
「あ、わたし、また息を止めてしまった」と言いました。
「そんなとき、どうするの?」と聞くと、
「深く息を吸う」と答えたので、
「息を止めたことに気づいたら、そのまま止めていればいいんですよ」
と言ったら、
またしばらく間をおいてから、
「なんだか、涙が出てきちゃった」としんみりした声でつぶやき、静かなひとときが流れました。