仲間の存在は、無心の表現を助ける‘黒子’のような役割を果たすだけではありません。
「ねえ聴いて」といった感じで、直接気持ちの聴き役にもなります。
また、たとえば自分の母親へのきもちと向き合いたいときなど、母親の代役を誰かにお願いすることもあります。
さらには、おねだりしたくなったら、触れ合うことで孤独感を克服することもできます。
肌と肌が触れ合う、というただそれだけのことで、私たちは互いの心を温め、安らかにすることができます。
やってみよう『背中を合わせる』
幼い子どもにとって、抱っこのぬくもりは安心感のみなもとですが、親が日々の忙しさや、生活不安や、過去から引きずってきた思い残しのせいで、心ここにあらずのまま抱っこをしていても、子どもの心は満たされにくいものがあります。
大きくなるにつれて抱っこの機会はしだいに少なくなり、弟や妹が生まれるとなおさら。
そこで、小学校の低学年の先生が抱っこの宿題を出してくれると、照れくさい顔をしながらも、内心大喜びで、宿題という大義名分を振りかざして親に抱っこをせがむことになるのですが、だからといって、そう何回も同じ宿題を出してくれるわけではありません。
そういうわけで、おとなになった私たちの多くは、ぬくもり不足症候群とでも言ったらいいような欠損感に悩まされることになるのですが、その欠損感は必ずしも親と子の関係によらずとも、人と人の関係によって満たすことが可能です。
そうは言っても、癒しの場では、ほとんど初対面どうしが出会うわけですから、そうおいそれと、抱きしめるという親密な体験をしてみるわけにはいきません。もっと無難な体験の仕方を工夫しなくてはなりません。
互いに背中と背中を合わせて、寄りかかり続けてみましょう。
わずか1分間とか3分間とかでもすてきな体験を味わうことができます。
あるいは、背中に手を当ててもらって、抱っこをしてもらっているような気分で寄りかかる、というのを交互に体験するのもいいものです。
そこで、脚を投げだして座ったあなたの背中を、もうひとりが両手で支えることにします。
初対面なので、最初はちょっとお互いにぎこちないですが、しだいに遠慮が取れてきて、しばらく続けているうちに、あなたは力を抜いてもたれかかって、支えられるぬくもりを味わうことができるようになります。
ふだんでも、夫婦とか恋人が相手だったら、遠慮なく抱っこをおねだりできます。
「いまは人と人としてのぬくもりによって、私の心のすきまに安らぎが充ち満ちるように、やさしく抱きしめてちょうだい。男と女として触れあうのはまたあとにしてね」
と、前もってお願いしておいたらいいでしょう。
やってみよう『ねえ聴いて』
ふつう私たちは、苦しくてたまらなくなってグチをこぼしたくなったときなど、誰かに苦しい胸の内をあますところなく話し続けます。
聴き手は、「ただ聴いてくれればいい」というその人の思いがよく分かるので、意見やら忠告やらをさしはさむのをひかえて、優しい眼差しであなたを見つめながら、ひたすら耳を傾けます。
でも、時には、言葉で話すよりも体で話し、体で聴いてもらったほうが気持ちがすっきり晴れる、ということもあるのです。
この「ねえ聴いて」と呼んでいる方法は、相手の手のひらを使って聴いてもらいます。
聴き手は片手を差しだして、「どうぞ、この手を使って聴きますよ」と言います。
あなたは利き手の一本か二本の指先、あるいは手のひら全体、あるいは握りこぶしを作って、相手の手のひらに、あなたの思いのたけをぶつけます。もちろん、両手を使うこともできます。
最初は、どうやって気持ちを聴いてもらったらいいのかとまどうかもしれませんが、とにかく始めてみれば、そのうちやりとりに慣れ、遠慮がなくなってくるほどに、おのずと自分の思いにふさわしい伝え方が分かってきます。
悔しくてたまらない気持ちなどは、こぶしで激しく打ちつけたり、手を強く下に向けて押しつけてくるので、聴き手は全身に力を入れて、両手を重ねてしっかり受けとめなくてはならないかもしれません。
話し手は、「もっと強く支えて」「やさしく包み込んで」「逃げようとするから逃がさないで」などと、遠慮なく聴き手にねだります。
そんなふうに遠慮なく甘えねだりをする習慣や関係を取り戻すことも、大切な癒しの目標のひとつです。