ちょうどいい張り合い

天心の研修会で、最初モデルになったときも、怒りが出始めていましたので、本格的につきあってもらえる時間になったとき、てっきり怒りが出るものとばかり思っていました。

ところが、後ろから背中を支えてくれているTさんの手が温かく、両脇でNさんとKさんが、両手をしっかり支えてくれていたので、守られている感じの安心感で、怒りは出て来ないのです。

「こんなはずはない。怒りが出てこないのなら、何も起こらないんじゃないか?(私の一番恐れているパターン)」

という感じがして、自分で怒りの動きを誘い出すつもりで、少し腕を回したり、首を回したり始めました。

それに対して、しっかりと張り合ってもらっていると、別な気持ちがわき起こってきたのです。

それは、なんだか愉快な気持ちです(張り合いが弱すぎては、受けとめてもらえないイライラがでてきただろうし、今思うのですが、逆にガッチリ過ぎても、いつもの怒りしか出なかったかも知れません。ちょうどよかったんだ!)。

「これではどうかな」と、ちょっと挑むような、試すような感じでもたれていっても、ちゃんと、受けとめてくれる!

面白くて、立ちたくなりました。

立ち上がって、もっと大胆に、首を振ったり、体を傾けたりしても、ちゃんと安心に受けとめてくれる!(後で聞くと、この時、Tさんが、前に後ろに、忙しく移動して、体を支えてくれていたそうです。ありがとう!)

その時やっとCDの音楽が、耳に入ってきたのです。宇宙のようでした。

それを聴いて、宇宙を泳ぐような気持ちになってきましたが、無重力というよりも、まわりをしっかり支えられ、だけど、人に頼っているというのではなく、動きは完全に自分の意思であることが嬉しいのです。

その時、うれしさが涙と一緒に突き上げてきました。と同時に、「自分が求めていたのは、これだ!」ということに気づいたのです(この時は、「これだ!」という感じでしたが、後で振り返ってみると、それは、「ボクがしたかったのは、赤ちゃんとして胎内で休むことではなく、はばたくことだったんだ!」ということだと思います)。

笑いと涙が、ごちゃ混ぜに出てきました。とても愉快でした。

感想の発表の時はいわなかったのですが、実はその後にあらわれたイメージがあったのです。

それは、白い光の天国のようなところで、知っている人みんなに迎えられるという光景です。

そうしたら、「もうやることはみんなやったんだから、もう十分」という気になって、満足な気持ちで胎内に戻ったのです。

この部分をみんなの前で言わなかったのは、「いささか、出来過ぎ」と言われそうで怖かったのと、自分でも「出来過ぎ」という感じがしたからです。というか、この部分は、「まだそこまで到達していないけれども、でもやがてはそうなりたい」という願いが顔をのぞかせたと自分で感じていたからです。

胎内に戻って、「やっとここまで来た!」「あきらめなくてよかった!」と喜びの言葉を、NさんとTさんが、「よかったね。そうだね」と聞いてくれました。苦しかった日々のことが、ちらちら思い浮かんで、また泣けてきました。

終わった後のことで、「ああ、これも前と違うなあ」という感じがあります。

それは、「これで、ボクの心のありようは、明日からがらっと変わるだろう」という気持ちがしないことです(前は、ワークショップや研修会の後はいつもそんな有頂天な気持ちになっていた)。

でも、あの出来事は、ボクの心の奥底で、今からじわじわと力を与え続けてくれるだろう、という確信もあるのです。

そういう感じ方をする今の自分に対しても、とても安心な気持ちがもてるのです。


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