宇宙と私の関係:前田美智子

私が初めて「天心」という言葉を目にしたのは、現在高校受験を控える一人娘が幼稚園の頃でした。

多分、世に出てほやほやの「天心」だったのでしょう。

「おとなのための癒し」という紹介文を見て、とても心が動きました。

子育てとは不思議なもので、母親である私自身の育て直しの日々でもあります。

今までふれずにおいた気持ちや、もう解決済みと思っていたやり残しの思いを、目の前の幼い娘が引っ張り出してくれるのです。

全くもうお手柔らかに願いますよという感じでした。

「おとなのための癒し」は、そんな私にとって魅力的でした。

でも、当時は「天心」に心引かれながらも踏み込むことができませんでした。

正直、何やら得体の知れない感じがしたのです。

それに、深い悩みのある人が参加するような、自分のために時間とお金を存分に使える人が行くような、特別な感じがしたのです。

多分、怖かったのでしょう。

天心に参加した事のある人は、きっと「そんなことはない」と首を横に振られることでしょう。

今の私も大笑いして当時の私に「全然違うよ」と言ってやることができます。

でも、残念なことにどう違うのかを言葉で説明するのは今でも難しいのです。

娘が小学校の高学年になった頃、私は期せずして「天心」を体験するチャンスに恵まれました。

「抱っこ法」という子育て援助の技法を学ぶ中、実習のひとつとして体験できたのです。

それはほんのさわり程度の体験でしたが、あの感覚は今も覚えています。

私は隙あらば理性を脇において、勝手に体が動くのに任せるのがもともと好きでした。

その実習でも音楽に合わせて自由に体を動かしていました。

すると私の両腕を2人の人がすっと手で支えてくれたのです。

もちろんそう介助するように指示されていたのですけれど。

支えるというよりはくっついて一緒に動き出したという方が正しいかも知れません。

そのうち、私が動かしているのか相手が動かしているのか分からなくなってきました。

動かしているような動かされているような。

それは同時に起きている感覚でした。

ひとりなのだけど両脇の人を感じられて。

勝手気ままに自由なのだけど受けとめてもらえている安心感があって。

お母さんの胎内にいるような、宇宙空間を漂っているような感覚。

ひとりがすべてで、すべてがひとりで。

あぁ、やはりうまく言えません。

私は感動で涙をポロポロ流しつつ、「宇宙と私の関係は本来こうなんだな」と思いました。

人と私も、人生と私も、世界と私も、本来はこうなんだなと。

でも、残念なことに「こう」ってどういうことなのか言葉では伝えられないのです。

「天心」の良さは言葉で伝えられないところにありそうです。

体験がものを言うのです。

心や体で感じるものなのです。

眠っていた本来の自分につながるのでしょうか。

ところで、私は実は「天心」で介助するのが苦手です。

頭で考えるのが得意だからです。

そんなことに最近気づいたのです。

その私が天心の案内役をしていることに奇跡を感じます。

なぜなら、この立場になってなければ、苦手と気づいた途端、私はそそくさと逃げ出していたでしょうから。

宇宙はよくこんな奇跡を私にくれるのです。

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